最近読んだおのころさんがバシャールに健康の知識を披露する本では、バシャールの病気に関する考えが、こんな風に書かれていました。
まず、第一に、その病気を自分で引き寄せてしまった理由を知るために、病気を活用しましょう。
第2に、「この病気になったことで自分自身についてどんなことを学んでいるのだろうか?」。「この病気になっていなければ学べない学びがあるとしたらそれはなんだろうか?」と自分に問いかけてください。
第3に、「この病気は私の人生の生き方、あるいはどこかを変えたほうが、人生が良くなると教えてくれているのだろうか?」と聞きましょう。
たとえば、「私の本当の情熱、本当の真実に沿っていないことをしているために、ストレスを増やしているのだろうか」。とか、「私は自分の本心に正直でいるだろうか」。こうした質問をすることで、人生において自分が真実だと思い込んでしまっているものの内容を病気が教えてくれていることに気づけます。
そこから気づくことは、私にとっての学びは
- もっと休むこと
- もっと毎日を愉しむこと
- もっと自分を大事にすること
- 心配し過ぎないこと
- リラックスすること
なのかもしれません。
ここでも長々と「いい施術院や整形外科はそうそう無い!」とぼやいていましたが、岡山から帰ってきてから、自分と向き合うことをテーマとしようと思うようになりました。
良くなっても良くならなくっても、まずは機嫌良く生きることができれば、それは私にとって、おそらく何より良い人生と言えるに違いないからです。
完治をあきらめたワケでは無いのですが、長年感じていた「自分を大事に出来てない問題」をまずクリアしようと思えてきました。ようやくこのブログのサブタイトルにたどり着いたというか、実は生活全般に影響がある大事な問題ではありました。
たとえば私の場合、他人の考えを優先させがちなところがあり、何か誘ってもらった時、断るのが苦手でした。
全く気が合わない相手であっても、義務感から飲みに誘って全然楽しくなくて、お互いただ疲れたという、意味のわからないことをしたり、全く興味を持てないインストバンド(私は歌ものが好き)のライブに誘われて、どういうワケか何回も聞きに行って、対バンが旧ユーゴスラビアの、生きる喜びに満ちた傑作娯楽映画「黒猫・白猫(Chat noir, chat blanc)」の挿入歌を演奏したのがいちばん良かった(&怒髪天も良かったな)、つまりほとんど楽しめないのに何度も通ったという流されっぷりだったのです。
その後、ライブに誘ってくれていた女の子は、セラピーの勉強で少しずつ変わってきた私を見てか離れて行ったのですが、今でも誘われるのは苦手でした。だって、私は誘われたら嬉しいし必ず行かなくてはと思うのに、ほかのみんなは、気分次第で私を誘うだけなのです。
断ってもいいんですよと何回か言われたことがありました。気楽にしていいんですよ、ですって。
思うに、私にとっては、
誘ってくれた人 > 私
という図式だったのかもしれません。
また、やはり誘ってもらえなかったとしたら、それはそれで、やっぱり嫌な気持ちになったりします。
自分にはそれだけの価値がないのだ、と考えるからです。
けれど、ここシェアハウスでは、国籍も年齢もバラバラな中割と自由に主体的に生きてる人が多く、頻繁にイベントがあって誘われても単に気が向かないからという理由で断る人が結構居るのですよね。うらやましく思うと共に、私もそうしてもいいのか、ということには気づけたかもしれません。
病気繋がりで久しぶりに「喜びから人生を生きる!臨死体験が教えてくれたこと」のアニータ・ムアジャーニさんの、「もしここが天国だったら?」を読んでみました。
この方の幼少時の劣等感については他のスピ本より共感を感じるのですが、臨死体験という通常と違う経験で末期ガンから生還した経緯で少し共感しにくいと思い、自己肯定感について書かれた本を探しました。
そして、ピッタリくる本を見つけました。(まだ読み終わっていないので、読み終わったら続きを書こうと思います!)
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